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現在データベースには 69 件のデータが登録されています。

対象から眼を離さない、と聞くと日常的動作のそれと関連づけてしまうかもしれない。我々の日常的ものをみるその自我の働きとは、甚だ曖昧である。大抵のそれは、他我なる立ち上がりに乏しく無数のそれらを抑圧することで、平穏として次なる所作に移行する。でなければ、その神経系統の健全なる保持は困難なものとなってしまう。だが、美的行為におけるそれは
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ボリュームがなく、取っ掛かりに苦労する。それは、他我なる立ち上がりの時間的超過となり、必然的にきっ先の停滞を呼び、そのリズムある運用を妨げる。おまけに多弁なる対象(モデル)ときているから、なお更それは、イライラを募らせる。クロッキーとは、削ぎ落としの美であろう。粉飾をまとうことは、絶対にあってはならない。

今週の一枚はこれ、と言っても、一枚のみを提出するのは、何時もながら難しい。自分のテーマ沿ったものなのか、数ある中の出来栄えであるのか、ポーズの面白味にするか、悩むところである。この一枚は、対象がつくりあげる起伏、思わぬ処にできる弛みに芯先が誘われたと言うべきか。立ち会うものの確認作業が臨場感となって表現されているならば成功であろう
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The 8th Gyenggi International ceramic Biennale 2017, International Competition GICB
2015韓国国際陶芸展は、長たらしいが、これが正式の名称である。陶芸の世界的コンペティションは、現在4つあるとされる。わが日本もあるが、日本の常として、「伝統」の横槍が入り込み、それは根強く権威的である。得てしてそうではあるが、それはまた芸能人的軽さのフットワークに縁どられている。
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今週の一枚はこれなり。対象なるものと立ち会う時間は、出来るだけ少ない方が良い。目紛しい私の立ち上がりが運筆にも反映される。即ち、それが臨場感を定着させる。今週の一枚とはならなくなるが、参考に下の作品は、やや時間をかけてある。描き込んだものはそれなりにそれなりであるが、何方かというと、破調の雅味からは遠くなるだろう。

ヴォリーム感のない対象には、やはり興が湧かないし、やり辛さがある。掴みがないということか。これは、対象をややデフォルメして全体を塊として捉えてある。

今週の一枚は、これなり。素描を描くとは、それぞれの造形的立場から、様々な思念がそこに存在するだろう。クロッキーは、最も端的にそれを展開させる作業となろう。空間をそこに出現せしめねばならない、対象を「物体」としての塊と出来せねばならない。況んや、その「もの」に彩色をし、臨場感に感情を重ねることは本質から目を逸らすことになりはしないか
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これから、週ごとに出掛けたおりのドローイングを展示し、公開的な作品としての性格を具有していきたい。批判の人目に晒すことか。今週のアップ画像は、これ、昨日、出掛けたおりの作品なり。まだ描写の用材が定まらない。鉛筆・三菱ユニは滑らかであるが、書き込むおりに立ち上がる対象との対話が不満なり。

既に、40年が過ぎた。大学入学の為に研究所に通うことは、進むべくその美術教育を受ける者にとっては、必要なことである。彫刻の学科に入学する為、浪人時代を含めて、4ケ所のその筋の研究所に次々と通ってみた。中でも自分にとって一番肌身に合った所が、太平洋美術学校であった。日暮里駅の西口を出て、喫茶店ルノアールを過ぎ、少し右に折れる矮小極ま
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